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「白バラの祈り」

f0033713_344916.jpg監督:マルク・ローテムント
脚本:フレート・ブライナースドーファー
出演:ユリア・イェンチ、アレクザンダー・ヘルト、ファビアン・ヒンリヒス


 ようやく行って参りました、「白バラの祈り」。
 これは第二次世界大戦中、反ナチスを掲げて活動した「白バラ」の紅一点、ゾフィー・ショルの、処刑までの5日間に焦点を絞った作品です。
 ヒトラー政権末期。声高に全面戦争を叫ぶナチスと、それに対し、自由を求め、暴力ではなく言葉で戦った白バラ。彼らはナチスを批判する文書を大量にばらまき、抵抗運動を行っていたが、ゾフィーとその兄は、大学にそのビラを撒いたところを見つかってしまう。
 ゲシュタポの審査官と対面するゾフィー。
「私には良心がある。その良心に従っただけです」
 


 多分、既にいろいろ言われているとは思うのですが、この映画、何が面白いかって、ゾフィーと彼女を取り調べる調査官モーアのやりとりが最高に面白い。手に汗握るとはまさにこのこと。
 最初は無実を主張していたゾフィー(この辺のやりとりも上手い!)ですが、モーアに証拠を掴まれると、一転して反撃に出ます。
 ビラを撒いたことを、「私は誇りに思っている」と。
 それから延々とゾフィーとモーアの舌戦が続くわけです。「私たちは暴力ではなく、言葉で戦う」


「秩序を取り戻すために、我々は戦争をしているのだ。秩序はナチスにしか作れない」
「ヒトラーがいなくなれば、戦争は終わります。そして、秩序も回復する。ナチスの秩序は恐怖政治でしかない」
「教育だ。君は誤った教育を受けている。私に娘がいたら、君のようにはしなかった」
「ガス室に送られる、精神疾患の子供たちを哀れと思うのは、誤った教育のせい?」
「どうせ価値のない命だ」
「彼らにだって可能性がある。どんなことがあろうと、裁くのは神です」
「神は死んだ」

 ちょっとうろ覚えですが。
 気になったのが、彼らの「秩序」への考え方。モーアのような年齢の人にとっては、第一次世界大戦のヴェルサイユ条約の苦い記憶があるのかもしれず、一方、若いゾフィーは民衆の可能性を信じている。
 そして、「法律と人間とを秤にかけ、それが合致しているどうかを見る、それが私の仕事だ」というモーアと、「私には良心があり、それに従う」というゾフィー。
 彼らには彼らなりの正義(モーアには法律と秩序。彼はナチスによる秩序が最も有効であると考える。そしてゾフィーには良心と自由)がある。双方の立場に立ってみれば、それは絶対に相容れない類のものであり、対立が解消されることはありませんが、少なくともモーアは彼女に敬意を表します。まだ若い女性でありながら、自分に立ち向かい、対等に言葉を交わす彼女は、彼にとって「きみは、こんな活動に関わる必要はなかった」ほど、惜しまれる存在だったのです。また、ゾフィーと同じ年頃の息子を持つ彼は、彼女に「協力すれば助けてやる」と譲歩を促しますが、彼女はやはりそれを撥ね退けてしまう。その後のモーアの、なんともいえない表情。
 彼女に背を向け、手を洗う(「この件から手を引く」ことの表れ)彼を見るにつけ、どうしようもないやるせなさと脱力感が伝わってくるようで、こちらも辛い。

 そして、ヒトラー政権の末期、全面戦争が叫ばれる中で、白バラの裁判は異常なスピードで進められてゆきます。
 しかし、ヒステリックに自分を裁いた、フライスラー裁判官に向かって、ゾフィーはこう警告するのです。
「いずれあなたがここに立つことになる」と。


 さて。
 全体として、室内の映像が多いので、息苦しいストーリーが更に圧迫されたような感じになっています。全体的に薄暗いし。ゾフィーの顔が、更に青白く見えます。ただ、その中での光の使い方が非常に印象的。窓から差し込まれる光は、ゾフィーの希望の象徴でもあるかもしれない。時折、室内から外に出るシーンがあるのですが、そこでゾフィーは決まって空を見上げ、太陽をまぶしげに見つめます。そのときだけ、薄暗い映像が明るく開放感のある映像になります。

 また、良心を信じる人間の強さ、死に対する恐怖とそれに立ち向かう強さを見事に演じた、ユリア・イェンチは本当にすごい。地味ながら、しっかりした演技をされる方ですね。今後も目が離せません。捜査官モーアを演じたアレクザンダー・ヘルトも素晴らしい。この二人がいなければ、はたして、この映画はここまでいいものに仕上がっていただろうか?
  
 
 そして、最後の、ゾフィーが兄たちに向かって笑うシーンはなんと言ったらいいか。

「太陽は輝き続ける」
 
 お恥ずかしながら、私は白バラや、ナチスについてあまり詳しいほうではありません。
 もう二度と、彼女たちのような犠牲者を出してはいけないはずなのですが。
 抑圧された世界の中に存在する、信念に従う人間、狂気に走る人間、追従する人間。
 今の私達なら、いったいどのタイプを選ぶのでしょう。




蛇足ですが。
前にも言ったことがあると思うのですが、私ドイツ語の響きがものすごく好きなのです。しかし、討論の言葉として聞くと、なんか迫力ありますよね。…うひゃー(汗)

そしてさらに蛇足。
…ゾフィーのお兄さんと、友人の顔立ち。彫りが深すぎて、独房の中とか、照明のあまりない暗いところでは、目が影になってて全く分かりません…。
ちょっと怖い(汗)


もうそろそろ、映画を見ないのも限界だったので、仕事もそこそこに映画館に行って参りました。
…いやー、改めて、映画っていいなぁ…。
本当に、いいもんだ。
そして、ブログも放置ぎみですみません(汗)。
とりあえず、「白バラ」を急遽アップ。文章が拙すぎます…。すみません…。
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by azuki-m | 2006-04-08 03:27 | ■映画感想文index

「ザ・ガーデン」

f0033713_2391814.jpg監督:デレク・ジャーマン
音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー
出演:ティルダ・スウィントン、ロジャー・クック、スペンサー・レイ、マイケル・ゴフ

 私がデレク・ジャーマン(以下DJ)にはまる決定打になった作品。
 確か、エドワードⅡのすぐ後に見たような気がします。
 エイズ発症、闘病中の彼がダンジェネスの自宅に作った庭と、エデンの園について。(或いは、バビロンの空中庭園について?)
 この「ザ・ガーデン」というのは、たくさんの意味を含んだ言葉ですね。

 「デレク・ジャーマンの“庭”を撮りたかった。“最初の庭”つまり“エデンの園”という意味を込めて。例えば天国(ヘヴン)という言葉は、本当はパラダイスという意味であり、パラダイスはガーデンとも同じ意味なんだ」(デレク・ジャーマン)


 ダンジェネス、というのはドーバー海峡沿いにあり、原子力発電所がある場所。DJ流に言えば、映画で見るようなイギリスの風景(広大な自然、緑)とはかけ離れた地区。
 死ぬまでの10年間、彼はそこに居を構えていたそうです。
 これもなんだったか、彼の自著に、ダンジェネスの漁師のコテージが売りにだされているのを見て、ティルダ・スウィントンが、「ここにしなさいよ、デレク」と彼に勧めたとか、そういう話があります。(グッジョブ、ティルダ!!)

 非常に不思議な映画。というより、不思議な映像。
 DJの官僚と原発への反抗、ダンジェネスの荒涼とした風景と織り交ぜられられる彼の心象風景、彼の庭、聖書、そしてエデン。
 ありとあらゆるごちゃまぜの映像の中に、ときどき挟まれる彼流の聖書の物語がなかなか面白い。彼の対象の描き方というか、パロディは、いつもながら独特で興味深い。私が彼が好きなのは、このパロディ(或いは脚色)の仕方が好きだ、っていうのも一つの理由なんですが。
 追放されるアダムとイヴ、誘惑者の蛇(男)、パパラッチに追い回される聖母マリア、イエスに洗礼を施す(?)ヨハネ。
 この映像は、二人の青年(恋人たち)の映像へと切り替わります。(彼の設定では、イエスは洗礼者ヨハネに惚れていたことが前提になっているようなので、そういうのを踏まえながら見てみるとけっこう面白いです。そういや、「カラヴァッジオ」の中でも、ショーン・ビーン演じるヌラッチオはヨハネのモデルとなったりしてますね。つまり、この青年たち(恋人たち)は受難者として書かれていて、DJがキリストを描くにあたって派生した一つの形となっているのですが。)
 それから、同じく追い回される「クイア」なマグダラのマリア、首をつったユダ、ヘロデ王。恋人たちは警察(ローマ兵)に突き出された後、茨の冠(ブルーベリー)を被せられ鞭打ち、そして、十字架。彼らは手足を釘で打たれ、十字架にかけられて死んでいく。
 一方、復活したキリスト(恋人たちとは違う人物)は必要とされず、人々は彼を指差し、或いは通り過ぎる。虚しいシーンです。槍に貫かれたわき腹を見せたとしても、彼らはなんの注意も払わない。そして、庭を手入れし続けるDJ。「私は庭を歩く」

 さて。
 最初にも述べましたが、ありとあらゆる映像の詰まった、面白い映画です。いろんな解釈ができる。DJ曰く、「私の作品の中でも、批評家たちのウケがいい映画」だそうです。また、ただぼーっと映像を見るだけでもいいし、聖書やら彼の著作の文章を思い出しながら見たりとか、なんかマニアックな楽しみ方ができる映画。

 それにしても、最後のシーンは本気で泣けました。
 泣けて泣けてしょうがなかったとですよ。
 恋人たちと、ティルダが一緒になって、お菓子を食べ、それを包んだ紙を燃やし、そして拍手をするという映像なのですが。これは彼なりの、「復活と再生」を指しているのですかね…。


 決して万人向けの映画ではなく、DJを好きでない人が見るなら退屈するだけであろう映画です。
 それでも、私は好きなんだな。


蛇足ですが。
モノクロの状態で出てくるティルダの映像があるんですが、なんか「パッション」に出てきたサタンと私の中ではイメージがかぶります。…にしても、最初見たときは「り、リング??」と思いました(汗)。

さらに蛇足。
ジョディ・グラバーの可愛らしいことよ…。その他の男の子たちも可愛い。DJは可愛い男の子を見つけてくるのがすごく上手いですね。
そして、ユダが首吊り状態になったまま、カードの宣伝してるのってどうよ(汗)。こ、こわいですー。
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by azuki-m | 2006-04-04 02:41 | ■映画感想文index

「隠された記憶」

f0033713_224594.jpg監督:ミヒャエル・ハネケ
脚本:ミヒャエル・ハネケ
出演:ダニエル・オートゥイユ、ジュリエット・ビノシュ、アニー・ジラルド

 ようやく書けた、フランス映画祭出品作品。
 ミヒャエル・ハネケ監督作品なので、ものすごく期待していきました。平日にも関わらず、ほぼ満員。「フランス映画」の響きの威力か、それとも「ミヒャエル・ハネケ」の威力か。それでも、映画初心者っぽい人の姿も結構あって、かなり驚きました。
 しかし…いったい、どう解釈すればいい映画なのか(笑)


乱暴に要約したストーリー:
何不自由なく暮らす家族の元に、ある日一本のビデオテープと、まるで子供が描いたような、血を吐く子供の絵が送られてくる。ビデオテープには、彼らの家の風景が映っていた。そんなビデオに不安を覚える夫ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)と妻アン(ジュリエット・ビノシュ)。しかし、警察に届けても、彼らは「事件が起きなければ動けない」と相手にしてくれない。次第にビデオの内容は自宅の映像だけでなく、ジョルジュの実家の映像や、犯人が住むと思われる、見知らぬ住宅の映像へと、どんどんエスカレートしていく。なぜ、誰がこんなビデオを作り、自分達に送りつけてくるのか?不安を募らせる夫婦。ジョルジュの頭に、かつて自分の家で働いていた、アルジェリア人の少年の顔が過ぎる。彼と、ジョルジュの間に何があったのか?ジョルジュはその男の元へと出向くが…。


 観客を置き去りにして、ずんずん突き進む映画ではないので、わりとのんびり見れる映画というか、想像する余裕を与えてくれる映画。しかし、なんだかこれもハネケの策略に乗ってしまっている気がする(笑)
 映画だけでなく、なんでもそうですが、ある程度想像の余地を残しておいてくれる(それが意味不明であったり、難解であったりする映画もこれに含む)場合、観客はあれこれと想像を膨らませ、勝手に理論付けし、自分なりの回答を導き出し、そして勝手に納得する。こうさせてしまえば、それはその観客にとって、「とてもいい映画」なんじゃないかな、と思います。
 彼が批評家に人気があるのも分かる気がします。
 ハネケはカンヌグランプリや各映画祭監督賞は取れても、パルムドールを取るような映画は作らないんだろうなぁ。……ハネケのパルムドール…見たいような、見たくないような(汗)
 ま、そんなことは置いておいて。


 最初のシーンは、何の変哲もない、住宅街の映像から始まります。その映像がじっと動かない。「…なんだこりゃ??」と緊張しだした頃、キャストの名前やらが、どの映像の上にずらずらと並べられていきます。(にしても字がちっちゃい:汗)

 主人公のジョルジュは、ビデオテープに導かれ、かつて自分の家で働き、養子として迎えられたものの、施設へと出されたアルジェリア人の男(…すみません、名前が思い出せない:汗)の古びたアパートへと辿り着きます。彼はジョルジュを懐かしげに迎えますが、ジョルジュのほうは「何故こんなことをする。俺を脅迫しているのか」の一点張り。男は「自分は何もしていない」と言いますが、ジョルジュは聞く耳を持ちません。
 あらん限りの暴言を投げつけた後、彼は帰りますが、その映像も、なぜかビデオに撮られて家に送りつけられているのです。
 妻の夫への不審は最高潮に達し、彼女はこの男と何があったのかを問い詰めますが、夫の口から出てきたのは、「昔、家で働いていたアルジェリア人の少年で、両親が気に入って養子に迎えた。だが、自分は彼が嫌いだったので、彼の行動が自分を怖がらせると両親に嘘をつき(夜中に血を吐く、鶏を殺した、など)、彼を施設に送ってもらった」というのです。
 
 つまりは、彼の(子供じみた、けれど大きな悪意)嘘が、彼の一生を台無しにしたというわけです。しかし、彼はそれを「子供がしたこと」と片付けてしまう。自分が何をやったか、わかろうともしないし、認めようともしない。
 それどころか、自分の疚しさゆえに、嘘をつき続け、過去を暴露した(と思い込んでいる)相手に向かって罵詈雑言を投げかける。勝手な男です。ですが、そのアルジェリア人に向ける猜疑心は、ちょっと異常なくらいです。既に忘れていた過去を思い出させた事に対する拒否感か、恐怖なのかもしれません。この後、彼の息子ピエロが行方不明(結局は次の日、無事に帰ってくるんだけど)になるシーンがあるのですが、ここでも彼はそのアルジェリア人がやったと主張し、警察を呼びます。踏み込んだ警察は、彼とその息子をまるっきり犯人扱い(テレビの人気キャスターと、裕福とはいえないアルジェリア人家族の言い分を、警察がどう秤にかけたかって感じですな…)。人権もへったくれもありません。
 やがて警察は彼らを釈放しますが、ジョルジュによって人生を台無しにされた男は、彼の目の前で、抗議と身の潔白の証明のために、自分の喉を掻っ切る。ジョルジュはまた、彼に対し過ちを犯してしまうわけです。しかしそれでも、ジョルジュは自分の過ちには気がつかないし、その過ちを隠そうとする。
  ですが、結局、事件はすぐに過去のものとなり、家族は元の生活に戻っていく。最後、ジョルジュの夢の中で、あのアルジェリア人の男の子に何をしたのかがぼんやりと見えてくるのですが、ものすごく曖昧で、これがジョルジュが彼について思い出せることの限界なのかな、とも。


 結局、ビデオを送りつけたのが誰なのか、ピエロに何があったのか、…そんな回答部分は、全くありません。息子が突然、母親に対して冷たい態度をとったことからも、母親と別の男が親しげにしている(その前に、彼女が親友の男性に慰められているシーンがあります)を、見たんじゃなかろうか、と思います。これももしかすると、ビデオに撮られて、ピエロはそれを見たのかも。だけど、どこまでも想像の枠を出ないんですよね。

 そして、最後のシーンをどう解釈すべきか。
 「衝撃のラストカット」、とパンフレットなんかに書いてあるのですが…。学校の玄関のシーンがワンカットで延々と流れているだけ。しかしその中で、ピエロと彼の友人か、黒人の少年が一緒にどこかへ行く映像があったような…?でもあまりにさらっとしていて、それがピエロかどうかもよく分からない。ただ、これがどんな意味を持つのか。それとも、全く意味がないのか。どちらにもとれて、見終わった後、頭が疑問でイッパイになり、勝手な回答を探している自分がいます(苦笑)。…あー…この映画を難しくしているのは自分なのかも。「ヴィトゲンシュタイン」じゃありませんが、「澄んだ水を濁らしている」のは観客ですな(苦笑)

 全体として、ビデオテープに録画された映像と、主人公たちの視線が入り混じり、緊張感のある映像になっています。主人公の視線だと思っていたのが、実はビデオの映像だったり、その逆だったり。また突如として、ジョルジュの記憶だと思われる、アルジェリア人の男の子の映像が挟まれたり。見る者と見られる者、私達観客を含め、主人公やビデオや、この映画のカメラワークとしての視線(ハネケの視線)が入り混じって、「これは誰の視線なんだ??」とちょっと混乱させられます。

 すごいな、と思ったのが、エンドロールが終わるまで、観客が全く出て行かなかったこと。(前の席だったので、後ろではもしかしたら出てく人がいたのかもしれないけど)。そして、映画館を出て行くときも、みんな無言(笑)。少なくとも、私の周囲には、感想らしきものを言う人がいなかった。

 日本での公開はGWになるのでしょうか。
 面白い映画です。見た後も、「…いったい、なんだったんだ?」と混乱させられ、長く余韻の残る映画。
 是非見て下さい。


蛇足ですが。
ビデオといっしょに送られてくる絵が、なんだか可愛いです…(汗)。血を吐く少年の絵とか、首を切られた鶏の絵なんだけど。気持ち悪いはずなんだけど。…なんか可愛い(大汗)。
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by azuki-m | 2006-03-27 02:26 | ■映画感想文index

「ブロークバック・マウンテン」

f0033713_23445531.jpg監督:アン・リー
脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール、ミシェル・ウィリアムズ、アン・ハサウェイ、ランディ・クエイド

 …とうとう見て参りました。
 おおまかなストーリーについては、皆さん既にご存知の事と思いますので、何もいいませんが…。
 大自然をバックに、淡々と描かれる、二人の20年。さんざん言われているように、この映画は男性同士の愛情が主軸となっています。
 「映画史上、最も心を揺さぶられる愛の物語」とは、ポスターに書かれている言葉ですが。確かに、この上ない愛の物語です。でも、あれは本当に「愛」だったんだろうか?いや、「愛」は「愛」だと思うんですが。20年という長い年月の間で、いろんなモノが混じり合ってしまったような気がします。
 しかし、カウボーイ同士の愛だけではなく、この映画の隠れた主役は、広大な大自然なんでしょうね。
 自然と対比された人間の矮小さが際立って見えます。


 なんだったかなぁ。
 BBM(原作、映画ともに)を見ていて、高校時代に読んだ、高村薫の「マークスの山」の一文を思い出しました。以下、引用すると、

「下界で生きているときには思いもよらない発展、爆発、開花を感じる。」
「殺人こそ犯すことはなかったが、情念の発作という意味ではそれに近い様態は、何度もあった。」
「憎しみ、愛していると感じたのは、雪と山と寒さと恐怖と、世界と加納のすべてだ。」

(加納というのは、主人公の義兄)
以上、高村薫著「マークスの山」(ハードカバー版76版、425頁より)

 「マークスの山」に出てくる山は登山の山なので、BBMの「山」とはかなり違うのですが、なぜかこの一文を思い出しました。生と死の間に常に身を置く登山と、山で羊の番をする彼らとでは、緊張感はやはり違うはずなのですが、「自然が作り出した、外界とは隔絶された空間にいる、たった二人の男」という意味で、この文章を思い出したのかもしれません。
 …なんだか、彼らのことを考えるたび、どうしようもないよなぁ、と思って。
 彼ら二人がゲイかどうかは分かりません。そんなことはもうどうでもいいです(申し訳ない)。しかし、自然が人を動かし、隔絶された空間の中で、下界では有り得ないほどの激しい感情を生じさせる。その結果が、純粋な友情から、その延長線上のような愛や、セックスになってしまったのかもしれない、なんて。
 でも、だからといって、イニスやジャックが、互い以外の誰かといた場合でも、あんな事が起ったのかといわれると、それはないとも思います。なんだかんだ言って、互いに好意を抱いていたのは事実だと思いますし、それがあったからこそ、行為に及んだとも言える。要は、きっかけです。
 そういえば、井上靖の「氷壁」。こちらも登山の話で、BBMの「山」とはかなり違う状況なのですが、「山は人を物語の主人公にさせる」だったか、やはりそんな一文がありました。
 ブロークバック・マウンテンの中で、彼らはヒーローで、世界は彼らのものだったわけです。そんな記憶は、あまり幸せとはいえない彼らの人生の中で唯一確かなものとなり、そして重くのしかかっていく。

 ブロークバック・マウンテンでの出来事は、言ってしまえば、たった数ヶ月の夢物語のような出来事です。ですが、あまりに美しすぎて、彼らはそこに拘り続けてしまう。ブロークバック・マウンテンから4年、彼らは再会しますが、再会までに4年という歳月を置いてしまったのが、また、間違いの元だったのかもしれない。
 最初は純粋にいい思い出だったんだけど、時が経つにつれて、彼らの環境も、彼ら自身もどんどん変化していく。
 ジャックの言うとおり、「素晴らしい生活をすごせるはずだった」のに、イニスは結局その道を選ぶことはできなかった。なんでこんなことになったのか、どこで間違えたんだろうかと思いながら、二人は引き返せない。思い出すのはブロークバック・マウンテンの記憶でしかなく、二人の間にはそのほかには何もない。

「俺は、負け犬なんだ」

 他にもっといい方法はあったはずなのに、それを否定し、代わりに選んだ婚約者との生活も、最後まで通すことができず。離婚の挙句、貧困と慰謝料とジャックへの想いに悩まされる毎日。イニスのこの言葉が、一番きました。

 なんだか辛いのです。とても辛い。
 イニスは、どうしようもないことではあるんだけれど、結局、彼の嘘が自分だけでなく、周囲をも不幸にしてしまっている。かといって、ジャックと共に農場を始めることが、彼にとって一番いいことかと言われると、それも分からない。
 アルマはそんなどっちつかずの夫に振り回され、あろうことか、自分の夫が「釣り仲間だ」という男を愛していることを知ってしまう。夫とその男とのキスシーンを見た瞬間、彼女の世界は崩壊してしまうのです。

 そしてジャックは、そんなイニス相手に、「頑張りすぎる」(ギレンホール氏談より)。
 原作はジャックの家庭への態度や、ラリーンの夫への態度がかなり冷たいものに感じたのですが、映画の方ではジャックはわりにいい父親として描かれています。ラリーンはラリーンなりに夫を愛し、ジャックもジャックなりにラリーンと息子を愛しているのです。それを見ながら、この人、どんな気持ちでイニスに「一緒に牧場をやろう、一緒に暮らそう」って言ってたんだろうと思って。
 ラリーンは勿論、自分の夫に他の誰かがいることを知っていたのでしょうが、アルマのように目撃したわけではないので、知らないフリを通すことができた。
 なんか男女4人のそれぞれの感情が、痛くてたまらんのですよ…。
 私の勝手な想像によるところも大きいと思うのですが、なんか本当に痛くて。

 ジャックを亡くした後、イニスはようやく自分が天国にいた事を知るのですが、全てが遅すぎる。しかし、ジャックが死ぬことを知っていたとしても、イニスが前進することができたかと問われると、それもちょっと分かりませんが。
 彼はジャックの思い出を、クローゼットに入れ、自身のシャツで包み、ブロークバック・マウンテンの写真を飾るしかない。


 『自分で解決できないなら、それは我慢するしかない』
 アニー・プルーの原作に出てくる言葉ですが、この言葉が非常に重みをもって聞こえてきます。


 …なんというか、見た直後よりも、映画館から帰る途中で映画の内容を思い出していた時のほうが、ぐっときました。時間があったら、また見にいきたいと思います。



 どうでもいいですが。(本当にどうでもいい:汗)
 二人のセックスシーンは、わりにぼーっと見ていた私ですが、二回目、ジャックがテントの中で裸でスタンバイしていたシーンは、飲んでいたコーヒーを吹くかと思いました。
 …いや、多分、そんなシーンに入っちゃうんだろうなとは思ったんだけど。
 なんていうか、ジャックって、変な言い方ですが、…私には、ちょっと共感できるタイプの男性というか。いやその、イニスを誘うやり方とかが、その……うまいですね(苦笑)。
 「俺はオカマじゃない」
 と昨夜の出来事を否定したい男には、体を張って誘わないとダメなのだ。しかしそんな、昨夜の過ちを認めたくないイニスだって、ある程度ジャックがそうしてくれるであろうことは、予想してた(期待してた)と思うし。ジャックがあのシーンで待っていてくれなかったら、彼らの二度目はなかったかもしれませんね…。
 …しかし、このときの彼の年齢設定って、19でしたよね(大汗)。恐るべし、ティーンエイジャー。



そして、フランス映画祭の感想文がまだです(大汗)
こ、こちらも早くアップします。
…うわぁぁん!!(泣)
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by azuki-m | 2006-03-21 23:58 | ■映画感想文index

「カノン」

f0033713_411465.jpg監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
出演:フィリップ・オナン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・バン


 「カノン」は「カルネ」の続編。
 なんというか、こちらも強烈な映画。
 主人公の元馬肉屋の50男の、どん底の人生と、娘への愛、そして「モラル」について。

 「ターネーション」が他人の人生を覗き見る映画なら、こちらの「カノン」は他人の心をぶちまけられる映画。他人の心をさらけ出されることは、それを見る側にとって、ある種ものすごい苦痛です。しかも、彼は何もかも全てに怒りを感じている。暴力的な言葉がまるで弾丸みたいに突き刺さってきます。「考える肉」である男の声は止まることがない。俳優さんも大変だったと思います。1時間40分通して、喋り続けているようなものです(苦笑)。


 前半から後半にかけてのストーリーを書くと、こんな感じでしょうか。
 場面の設定は「カルネ」から数ヶ月。
 女主人の実家で、ヒモとしての生活を続ける男。しかし、女は馬肉屋に拘り、それ以外の仕事をしようとしない男に対し、日に日に苛立ちを募らせていく。そして男の方も、元から金めあてで女に近づいたのであり、女が金を出してくれないとなると、彼女に用はない。
 そんな苛立ちが募る中、ちょっとした誤解がきっかけで、彼らは罵り合い、やがて男は妊娠している女を殴り、流産させ、銃を持って家から飛び出す。向かった先はパリ。だが、金のない男は安ホテルに泊まるしかない。見覚えのあるホテルに彼は落ち着くが、そこは彼が娘を「作った」場所だった。仕事を探しても、友人を頼っても、誰も彼を助けてはくれない。彼の苛立ちは更に募っていく。周囲全てに怒りを覚え、人生は長い穴倉のようなものだと思う。ホテルで銃を眺めながら、自分を陥れた人間を殺し、そして自殺しようと考える男。だが、そんなとき、彼はふと娘のことを思い出す。自分が死ねば、娘はどうなるのか。娘への愛情を募らせる男。翌日、彼は施設へと赴き、「エッフェル塔を見せてやる」といって、娘を連れ出す。しかし、彼が向かった先は自分のホテルだった…。


 男が娘に触れるのは、映画の中盤くらいからなのですが、その前までは本当にどんどん落ちて行く50歳元馬肉男の物語。女主人と仲たがいし、お腹の中の赤ん坊を蹴り殺すシーンがすごい。パリに来てからも、彼の心の声はどんどんどんどんひどくなっていく。それを聞いている私も、たまったもんじゃありません(苦笑)。しかも銃を手に入れてからは、銃という力(モラル)を手に入れたと感じているので、彼にとって気に食わないことがあると、「バーン!」という、銃の発砲音を真似た彼の声が画面に響き渡る。


 ホテルに娘を連れて行った後、物語りは二つに分かれます。一つは彼の想像の世界、もう一つは現実の世界。しかし、この想像の世界がまた強烈…。
 最初の想像のシーン、男はホテルに娘を連れ込み、彼女と行為に及びますが、その後、「これで思い残すことはない」「父さんも、すぐ後に行ってやる」と、娘を撃ってしまうのです。しかし、急所はそれていたのか、彼女は苦しむだけでなかなか死なない。首からどくどくと流れる血。 
 「苦しがってる」「早く殺してやれ」「死ね」「娘が死ぬはずがない」「奴らが娘を殺した」「…俺はいったい誰と喋っている?」「殺したのは誰だ」「俺は善を殺したのか」「神よ、愛しています」「俺をこの肉の塊から解放してください」
 このあたり、今まで安定していた視界がぐらぐら揺れ、早口の声がとめどなく流れ、そして最後に男も自殺します。
 …しかしこれは勿論、想像の世界。男はすぐに現実へと帰り、「俺は善人だから」そんなことはできないことに気付く。娘を抱きしめ、「愛している」と泣く男。ここでようやく心の声が一時途切れ、パッヘルベルのカノンが映像を満たします。
 「おれがお前を幸せにしてやる」 
 「おまえは俺の娘だ。俺がおまえを女にしてやる」
 娘への愛をはっきりと自覚し、そして行為に及ぶ父娘。最後のシーンはカルネ、カノンでよく見られた暗い車道、橋の下といった暗さのある映像ではなく、ホテルの前の、朝の歩道が映されています。


 さて。この映画、ラストの終わり方がかなり…意外というか、唐突というか(苦笑)。今まで壮絶に毒を吐いていた映画でしたので、娘への愛情がピュアすぎて、ちょっと唖然としたのですよ。娘さんのことも、映画中盤くらいまで触れられることがなかったので(映画の主題が「50歳の、元馬肉屋についての物語」だそうですから、仕方ないかもしれないのですが)、かえって、「カルネ」の方が、娘に対する歪んだ欲望とか、卑しさとかが感じられたのです。「カノン」は、娘に対する愛は非常に純粋なものとなっています。ですからその分、娘の他に対する、男の憎悪の対比が鮮烈になっていはいます。「金持ちから」押し付けられたモラルにうんざりしている男。彼は自分のモラルを貫こうと決意し、それが娘との行為に至る一つの理由になっているのかもしれませんが。「ある種の快感が罪とされるのは、それが金持ちどもによって罪とされたからだ」「失うものはなにもない」「俺は俺のモラルを貫く」
 そして、娘は今回も何を考えているのかよく分かりません。しかし、父親を拒むことなく、どちらかといえば積極的に受け入れている。

 今回は、「馬肉」はあまり出てきませんが、男が夢の中で真っ赤な肉を触っているシーンがあります。それがものすごく卑猥で、ぎょっとしました。
 「馬」も、「カルネ」ではかなりはっきり出てきたんですが、この映画では肉処理場で肉の塊を見るくらいかな。ただ、男の人生が「馬肉」そのものなのかもしれません。

 この映画もそうですが、なんというか、私の下手な感想文より、とりあえずは見て下さいと思う映画。(それをいったらだめー)。
 説明がし辛いです…(汗)。男のあの壮絶な内面は説明することができません。
 とはいっても、見た後はとにかく疲れます。

 そして、この映画の後日談とも言えるものが、「アレックス」でしょうか。この映画の冒頭、肉屋の男が再度登場し、「自分の娘と寝た」ことを、同室の男に話すシーンがあります。


 それにしても、娘さんの名前はシンシアっていうんですね…。続編のカノンでようやく名前が分かりました。どうでもいいですが、以前、某映画紹介サイトで、娘の名前が「カルネ」とされてて、ぶっとびました。…いや、「カルネ」って、「肉食」「馬肉」とか、そういう意味らしいですから…。イタリア語とスペイン語でも「カルネ」って「肉」の意味だっけ…。
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by azuki-m | 2006-03-18 04:59 | ■映画感想文index

「カルネ」

f0033713_265822.jpg監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
出演:フィリップ・オナン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・バン


 「アレックス」のギャスパー・ノエの作品。こちらも一部では熱狂的な支持を得ている監督ですね。
 全編を通した赤に、見ていて気分が悪くなってくるような映画です。ですが、何か惹きつけるものがあるというか。ショッキングなんだけど、目が離せず、結局最後まで見てしまうというか。いろんな意味で、長く心に残る映画ではあります。
 

 端的に言えば、この映画は口のきけない娘を愛した、父親の物語です。
 しかし、その中に様々なショックが詰まっているのですが。 

 冒頭、娘を産んだ女が妊娠の最中、ひたすら馬肉を食べる場面があります(フランスの馬肉消費量は欧州でもトップクラス。また、安価なため、低所得の家庭でよく食べられるのだとか)。女の顔は見えず、その口元(胸元か)が映されるだけ。しかし、このシーンがまた、なんというか、…ある意味ホラーです(汗)。真っ赤な馬肉。それをむしゃむしゃと食べる女。
 ……「食べる」という行為は、ある意味ものすごくエロティックで、そしてグロテスクな行為ですよね。生きることそのものの行為であり、貪欲さを表す行為でもあるという。

 …まぁ、それはともかく、馬肉ばかり食べていた女の腹から口のきけない娘が生まれ、その後、女は娘を残して出て行ってしまう。
 しかし男は馬肉屋の仕事を続け、娘に馬肉を食べさせ、そして黙々と彼女の体を洗う。
 十数年同じ日常が繰り返され、やがて娘の体は「女」になってゆく。

「母親に似てきた」
 次第に美しく、女らしくなっていく娘。彼女の体を洗いながら、男はそう思う。
 娘が何を考えているのかは、さっぱり分かりません。表情が動かないし。目も、なんていうか…意思のない目というか、本当に生きているのか分からない目というか。彼女の顔のアップがほとんどないので、細かい所が分からない。彼女は当たり前のように、父親に食事の準備をしてもらい、体を洗ってもらう。

 そしてある日、外から帰ってきた娘がスカートに血をつけて帰ってくる。初潮が来たのです。これで、彼女は「女」になるための準備を終えたと言えます。しかし、哀しいかな、男親の父親はその事が分からない。娘がレイプされたのだと思い込み、その前の場面で彼女に声をかけたアラブ人の男にナイフを突き立てる。ここでもまた、血の赤です。

 当然のこととして、男は逮捕・刑務所へ。娘は施設へと送られるが、別れの場面で父が娘を抱きしめても、彼女は何の反応もしない。刑務所の中の長い時間、男はただ娘を思い続け、心の中で、娘への愛情と、欲望とを育ててゆく。

 外に出た後、男は自分の店があのアラブ人の男のものとなっていることを知る。行くあてがなく、馴染みのカフェの女主人の元へ。成り行き上、彼は女主人とベッドを共にし、男は彼女のヒモとなる。やがて女もまた、妊娠する。しかし、男は女主人の生む子供の父親になどなりたくない。彼の「娘」はあの、口のきけない娘だけなのです。

 女主人をレイプした後、男は娘に会いにいこうと思う。真っ暗な車道が映ったのち、場面はここで途切れ、続編の「カノン」へと続く展開になっています。 


 大分前に見た映画なので、細部はかなりあやふやです。…あやふやなのですが。
 馬肉の赤、血の赤。初潮のどす黒い血も(あんなところにつくんだろうか、というツッコミはさておき)妙にリアルです。全編通して赤一色といった感じで、見ていて気分が悪くなるほどなのですが、そのために、あの強烈さはかなり頭に残っています。(それにしても、ノエは赤が好きですね…。「アレックス」も、見ていて悪酔いするような映画でしたが。)
 また、音楽が確か、ほとんどなかったように思います。そして、突然、「バン」という効果音とともに場面が切り替わる。物語は男の内面の声だけで語られ、男が直接誰かに話しかけるシーンはほとんどない。男はいつも誰かに話しかけられる役割です。ですが無言のまま、男は彼らを瞬きもせず見つめている。

 「馬」は知性や権威や死などのほかに、性欲だの、動物的欲望だのも象徴しているようです。娘が馬の乗り物(街の片隅になぜかひっそりと。メリーゴーランドでよく見るような、あんな馬です。上の写真にちらっと写っているのがそれです)に乗るシーンがあるのですが、彼女はそこで初潮を迎えるのですよね…(汗)。ある意味、父親の想像は間違ってはいないと言えるのかも。

 なんだかこう、この話は、私の下手な感想文などより、見ていただくのが一番という気がします。(それを言ったらおしまいだー)
 二度と見たくない、というより、二度も見たくないと思うのですが、私はなぜかこの映画が好きです。40分ほどの、非常に短い映画なのですが、記憶に長く残る映画。グロテスクなせいもあるとは思いますが、あの強烈さはちょっと忘れにくいし、「グロテスク」とだけでは片付けられない。
 非常に強烈で、「感受性を傷つける」映画。体の具合がいいときに見る事をおすすめします。身構えながら見てください。



 さて、次は続編の「カノン」の感想文なんかを…(笑)
 これも強烈。ギャスパー・ノエの作品って、リンチ作品みたいに説明しづらい…。
 この方々の作品は、理解するとかどうとかより、その世界に入っていけるかが最大の問題ですよね…。
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by azuki-m | 2006-03-14 02:19 | ■映画感想文index

「焼け石に水」

f0033713_3331748.jpg監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
出演:ベルナール・ジロドー、マリック・ジティ、リュディヴィーヌ・サニエ、アンナ・トムソン


 フランソワ・オゾンの作品。
 数ある作品の中で、どれがいいかなー、どれがいいかなー、と悩みはしたのですが、とりあえずこちらをチョイス。
 オゾンの作品は、「8人の女たち」くらいしか知らなかったのですが、オゾンファンの友人から送られた「オゾン映画集ビデオ」を見せられまして。そのついでに、その他のオゾンの映画も見た時期があったのですが、この映画もそんな時に見たんじゃなかったかな。オゾン強化月間…。けっこうしんどかったです(汗)。


 映画は、中年男レオポルド(ベルナール・ジロドー)が、若いフランツ(マリック・ジティ)を家に招いたことから始まります。最初、二人の会話はぎこちなく、そのもどかしさに可愛らしさすら感じるのですが、その後のベッドシーンの後、二人の関係は全く違うものとなっています。
 次の場面で、二人は既に同居をしているようなのですが、レオポルドを喜ばそうとしてか、仕事から帰った彼をやたらに可愛らしい格好で迎えるフランツ(半ズボン…)。しかし、レオポルドの関心は既にフランツから離れています。そんな状況に苦しむフランツ。しかしそんなとき、フランツの恋人であるアナ(リュディヴィーヌ・サニエ)が彼の元を訪れます。彼女とのセックスの後、フランツはレオポルドと別れ、彼女の元に戻ろうと思いますが、そのアナ自身が、レオポルドに陥落してしまう。やがて、レオポルドの昔の恋人・ヴェラ(「彼が喜ぶと思って」、男から女に性転換を行った)(アンナ・トムソン)も現れ、レオポルドとの関係を修復するのです。4人が揃ったところで突然、ダンスシーン(写真の絵です)。しかしこのダンス、フランツだけが妙にテンポがずれています。女二人をベッドに誘い、一人取り残されるフランツ。感じていた孤独は最高潮に達し、やがてフランツは自殺という手段を選ぶのですが、居間に転がった彼の死体を見ても、レオポルドは泣くことも嘆くこともしません。彼はただ、動揺するヴェラに、寝室に戻るよう言うだけです。

「より多く愛する者は、常に敗者になる」。

 映画のキャッチコピーなのですが、この言葉の通り、愛しすぎたフランツが敗者であり、誰も愛さなかったレオポルドは、常に勝者なのでしょう。


 さて。
 エドワードⅡに引き続き、こちらも戯曲の映画化。(ドイツの映画監督、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが19歳の時に作った、未発表の戯曲が基なのだそうです。)
 ですので、映画の構成も、同じく舞台チックです。ストーリーは4幕構成で、起承転結が非常に分かりやすい。また、設定も「家の中」ということで、彼らが外に出ることがありません。だからそのぶん、閉じられた空間の中で起きる室内劇というか(この辺、「8人の女たち」と一緒ですね)、閉鎖性が非常に強くなっています。ですが、「8人の女たち」が外的な要因により閉鎖されたのに対し(内部の人間の仕業もあるけど)、こちらの「焼け石に水」は自分たちが進んで閉鎖された空間(箱)を作り上げているんですよね。
 しかし、「焼け石に水」の箱には、外からの入り口は開かれています。ただ、中から外へ出られないということだけ。こういうのって、恋愛やセックスに似てるんでしょうね。一度入りこんだら、それから逃れることは難しい。悪魔のようなオトコから逃れられない女たち、男たち。

 最後、ヴェラが窓を開けようとして頑張るのですが、どうしても開けれず、項垂れるシーンがあります。逃げることのできない小鳥(まぁ、正直、ヴェラを小鳥と呼ぶには抵抗がありますが:汗)、といったシーンでしょうか。しかし、ここになって、ようやく家の外から中を見る(窓の前でもがくヴェラを撮っている)映像になるのですが、カメラの視点はそんなヴェラからゆっくりと離れていき、やがて彼女は小さくなっていきます。それは観客であり、外から見る者である私達の視線になるのだろうけど、どこか無関心で冷たい視線です。彼女たちのこの先の未来は、絶望的ともいえます。


 フランツやヴェラの気持ちは、レオポルドには全く通用しない。非常に悲惨な話なんだけれど、妙にコミカルでお洒落。ところどころに挿入される音楽や、彼らの行動が、笑いを呼び起こすからかもしれません。
 深刻な題材を、そのままストレートな悲劇にしてしまうのではなく、お洒落な皮肉を被せてしまうところが、オゾンらしいとうか、フランス映画らしいというか(苦笑)。レオポルドの笑い声が聞こえてきそうな気がします。フランツの死は、彼にとって大した意味を持ちそうにありません。



 蛇足ですが。
 オゾン作品によく出てくる、リュディヴィーヌ・サニエちゃん。彼が作る世界に、彼女は必要不可欠です。
 しかし、オゾンの描く「若い女性(或いは少女)」が、私にはどうしても理解不能というか(苦笑)。
 彼の映画で出てくる若い女性は、たいてい、「誘惑者、或いは場の調和を乱す者」というような役割を与えられているような気がします。(尤も、その誘惑者を通して、主人公が成長していく過程が描かれているのですが。)勿論、これは、オゾンに限らず、どの映画にも見られることなんですが。ですが、その…オゾンの描く、彼女たちのあまりのエネルギー、奔放さ、そして無分別さは、聖書の中のイヴを思い出すというか。「次の行動が読めない(汗)」ということもあるのですが、彼女たちが何を考えているのか、全く分からないことが多いのです(他の映画でも、若い人達のエネルギー、奔放さ、そして無分別さを描いたものはたくさんあるのに)。私がオゾンの作品を苦手だと思うのも、この辺に理由があるのかな、とも思います。
 とはいっても、私は彼の最新作を見ておりませんので、あんまりエラソウな事はいえませんが(汗)。「ふたりの5つの分かれ路」のレビューなんかを見ると、上の傾向は、既に過去のものとなっているようですしね。


それにしても、ようやくオゾンの作品をアップできました。
次はなんにしようかな…。
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by azuki-m | 2006-03-11 03:33 | ■映画感想文index

「エドワードⅡ」

f0033713_19543620.jpg監督:デレク・ジャーマン
脚本:デレク・ジャーマン、ステファン・マクブライド、ケン・バトラー
出演:スティーブン・ウォディントン、ティルダ・スウィントン、ナイジェル・テリー、アニー・レノックス
音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー

 クリストファー・マーロウ(シェイクスピアと同時代の劇作家)の戯曲をもとにした映画。ですので、作中には、あの独特の長い言い回しが随所に溢れています。(正直な話、私、シェイクスピアって、かなり苦手なのです:汗)。しかし、デレク・ジャーマンらしい、様々な拘りを見せた、非常に面白い映画に仕上がっています。

乱暴に要約したストーリー:
寝室にて。エドワード2世(スティーブン・ウォディントン)からの手紙を読むガヴェストン(アンドリュー・ティアナン)。手紙には、ガヴェストンを追放したエドワード1世の崩御について、そして、自分の元に帰るようにと書かれてあった。「王が私を必要としておられる」。彼に会うため、イングランドへと戻るガヴェストン。しかし、あまりにも親密すぎる彼らを、王妃イザベラ(ティルダ・スウィントン)を筆頭とする、宮廷の面々は、苦い思いで見つめていた…。


 映画は、暗い室内の中に一つのベッドが置かれた状態で始まります。その上に腰掛ける男が二人、そしてその後ろでファックする男が二人。…この映像がこれまた濃厚なんですがね(汗)。最初に、これを持ってくるか。
 ガヴェストンは王を純粋に愛しているのか、それとも利用しようとしているのかはちょっとよく分からないんですが、エドワードⅡのガヴェストンへの愛はかなり悲痛。
 「みなが嫌う者を、何故そこまで寵愛されるのか」
 と廷臣達に問われるも、
 「全世界の中で、彼ほど私を愛してくれる者は他にいない」
 と叫ぶエドワードⅡ。(ちょっとうろ覚え:汗)
 二人はやんちゃな子供のようにも見えます。しかしエドワードにはガヴェストンしかおらず、彼はどんどんガヴェストンにのめりこんでいきます。そして、そんな二人を見ることしか出来ない王妃イザベラ。しかしガヴェストンという人物は、かなり奔放で、そして自分を陥れた者に対しては容赦をしない性格です。

「あなたは私から王を奪った」
「いや、違う。王妃よ、あなたこそが私から王を奪ったのだ」

 ガヴェストンから辱めを受け、震えるイザベラ。しかしそんな彼女が王の関心を得ることができるのは、こんな追放されたガヴェウトンの復帰に尽力した時だけです。彼女はやがて、そんな王やガヴェストンに疲れと怒りを覚えてゆき、廷臣のモーティマーと結託して、反乱を企てます。やがて、王座を手に入れる二人。しかしその王座も、やがて王妃の息子(エドワードⅡの息子)、エドワードⅢ世が成長し、剥奪されます。印象的だったのは、この最後のシーン。箱状の檻にイザベラとモーティマーが、埃まみれの人形のような姿で座っています。そしてその檻の上で、チャイコフスキーのくるみ割り人形をウォークマンで聞きながら踊る、化粧をし、大きなイヤリングを身に着けたエドワード王子(エドワードⅢ)。彼は躍りをやめると、しゃがみこみ、自分の足元にいる母親達を見つめているのです。「高みへと上った者は、後は落ちていくだけだ」。権力の移ろいやすさを呪うモーティマー。しかしその上で、エドワード王子は再び踊り出す。


 さて。
 全編を通して、エドワードとガヴェストンの恋愛を主軸にした、真っ向から同性愛を取り上げた作品です。しかしこの中に、当時存在したセクション28に対する、デレクの抗議の色が見えて、単なる「戯曲エドワードⅡの映画化」、というものではありません。エドワードとイザベラの戦争は、ゲイの抗議活動になっているし、結局エドワード(ゲイ活動家)達は、そんな国家の圧力に敗れてしまう、という展開も、彼の断固たる抗議を感じさせます。(イギリスの同性愛者の権利について、彼は自身の著作の中でも、痛烈な批判を繰り返しています)。

 しかしこの映画、「本当に予算がなかったんだね…(泣)」というのが分かる、ありとあらゆる所で支出削減のための工夫が施された映画(デレクの作品としては、予算が多い方なのかもしれないけど)。ただし、それが映画にしては斬新で、逆に面白く見えてしまったのですが。また、予算がなかったのは分かるのですが、かといって決して安っぽい映画ではなく、随所で妙な豪華さを感じる映像に仕上がっています。
 例えば、本来ならコスチュームプレイですし、あの時代のゴテゴテのドレスが必要になってくるかと思うのですが、登場人物は全て現代の衣装。ただし、イギリス人であるエドワード達はポール・スミスの衣装、フランス人であるイザベラはエルメスの衣装と、美しい衣装が用意されています。(しかし、少ない予算をティルダの衣装に費やしてるんじゃなかろうかと思ったり:汗)また、エドワードとガヴェストン二人のダンスシーンには赤いドレスを着た女性弦楽四重奏+アニー・レノックス特別出演。…はぁ。こういうのって、通常のコスチュームプレイなんかで、豪華な室内オーケストラの映像をさらっと流されるより、印象に残りますね。

 映像としては「カラヴァッジオ」の流れをそのまんま引き継いだような感じなのですが、こちらのほうが背景が(まだ)はっきりしていて、奥行きもあります。セットは全編室内で、背景には石っぽい壁があるだけです。その中に人物が立っているだけで、その他はまったく何もありません。椅子や机といった小道具を使うことはありますが、それも画面の中央にぽつんと置かれるだけ。後半になって、野外での映像があるのですが、こちらも「夜」という設定ですので、背景は真っ黒いまま、何も見えません。

 役者陣も、特に美形を揃えているというわけではないのですが、味があっていい。しかし、この時のティルダ・スウィントンは別格。私は彼女をそこまで美人と思ったことはないのですが、このときの彼女には本当に、文句のつけ様がない美しさ、優美さ。しかし彼女の美しさが際立てば際立つほど、彼女の哀れさは増し、彼女への同情を禁じえない。この映画自体、彼女の優雅さに助けられた部分はかなりあると思います。また、エドワード王子役のジョディ・グラバーが可愛らしい。最後の部分は、彼の可愛らしさが余計に不気味です。この子も、「ザ・ガーデン」から引き続いて出演。

 また、この辺、ちょっとよく分からないのですが…。
 このときのデレクは非常に調子が悪く(彼はエイズを発症、闘病生活中だった)、助監督(かな)の方にかなり助けられた部分が多かったとのこと。なので、どの程度、デレクが撮ったのかは分かりませんが、机上の企画は彼が起こし、スタッフ達と話し合って撮影に移ったものですし、だいたい、彼の意向が生きていると思います。

 マーロウという、日本ではあまり馴染みのない人物の戯曲を映画化、というのも充分面白いし、その解釈の仕方も興味深い。
 こちらもかなりオススメの映画。また、デレク・ジャーマンの作品としては案外さらっと流せて見れます。思えば、これが私が最初に見た彼の作品だったなぁ…。あれからこんなにハマルとは、思ってもみなかった(苦笑)。



1991年、ヴェネツィア国際映画祭主演女優賞
1992年、ベルリン国際映画祭国際評論家連盟賞
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by azuki-m | 2006-03-05 19:58 | ■映画感想文index

「キャメロット・ガーデンの少女」

f0033713_1383669.jpg監督:ジョン・ダイガン
脚本:ナオミ・ウォーレス
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:サム・ロックウェル、ミーシャ・バートン、キャスリーン・クインラン、クリストファー・マクドナルド 、ブルース・マッギル


 この作品も、ようやく感想文がかけました。
 現代の御伽噺とでも呼べる作品。非常によくできた脚本なので、最後の展開にはかなり驚きました。

乱暴に要約したストーリー:
高級住宅地・キャメロット・ガーデンに住む空想好きの少女デヴォン(ミーシャ・バートン)。彼女の父親は選挙を控えており、知名度を上げるため、近所にクッキーを販売するよう娘に言う。しかしデヴォンはクッキーを配らず、キャメロット・ガーデンを出て森の中へ。その中に建つ、古びた一軒の家。彼女はそれを御伽話に出てくる怪物・「バビヤガ」の棲家だと思い込むが、そこはキャメロット・ガーデンで芝刈りを請負う、トレント(サム・ロックウェル)の家だった。キャメロット・ガーデンから疎外されるトレントに、彼女は自分と同じ何かを感じ、彼に近づく。はじめは彼女を邪魔に思っていたトレントも、デヴォンを徐々に受け入れてゆくが、周囲はそんなトレントに非難を目を向け始め…。

 
 ストーリーは、まるで箱庭のように美しく整備された町、キャメロット・ガーデンから始まります。画面に映るのは、ぽつりぽつりと並んだ大きな家、その家家の間に広がる美しく手入れされた芝生。そのほかには何もありません。なんというか、自然を感じさせない、全くもって人工的な町です。なんだか、よくできた箱庭の中にいるみたいな。町は大きな塀に囲まれているので、余計そんな感があります。

 主人公のデヴォンは幼い頃に心臓の手術を受けたことや、同じ子供の話についていけない(彼女の話し方はかなりゆっくりめ)事もあって、自分の内に閉じこもる、空想好きな少女です。しかし、彼女は両親を含むキャメロット・ガーデンの人々の欺瞞を見抜き、彼らを軽蔑しており、自分と同じように「キャメロット・ガーデンの外にいる」トレントに、強い興味を持ちます。

 トレントはキャメロット・ガーデンとは対極の、異質な人間でした。(キャメロット・ガーデンにはその外にも余所者(貧乏人)である、新聞配達夫なども、彼と同じ立場の人間として出てきます)
彼は、新しいシャツを買って外に飛び出したいと思うけれど、そんな願いは叶うはずがないということを知っている。自分が「芝を刈る側の人間」であり、疎外されていることも知っているけど、そんな状況も半ば諦めている。けれどそんな自分に時折ちょっかいを出す人間がいて、彼の感情を逆撫でる。

「何が欲しいんだ」

 だから彼は、デヴォンにも、そして彼への歪んだ思いのため、抱執拗な嫌がらせを続けるショーンやブレッドにも、そう聞くのです。

 そんなトレントの前に突如として現れたデヴォンを、最初彼は苛立ちながら、やがて徐々に認めていく。「レオン」のような、子供のように素直な大人ではなく、育ちきっていない部分はあっても(突如橋の上から素っ裸で飛び込んだり、デヴォンと一緒にトラックの上で踊りだしたり。そもそも、デヴォンという子供を受け入れる事ができたのも、彼に残っていた子供の部分が一つの原因だったのかも)、彼はやはり大人です(彼女と付き合うことも周囲の目を非常に気にしているし、車に轢かれ苦しむ犬を殺してあげたり、彼女から預かった銃から弾を抜いて返したり)。
 最初、アクションを起こすのは常に彼女で、彼はそれについて行きます。大人である彼には、彼女ほどの大胆さはない。けれど、最初はそんなデヴォンに辟易しながらも、子供である彼女と最後まで真摯に向き合っていく。話が進むにつれ、(彼女の影響もあってか)、彼は自分から動くことを覚えていくのです。

 二人の間には、友情とも、愛情ともつかない、不思議な感情が生まれていきますが、これがラヴストーリーになるのを食い止めたのは、彼の性格によるところも大きかったんじゃないかな。デヴォンはちょっと分からない。子供の激しさと、純粋さ。けれど、「女はいくつであっても女」という格言の通り、彼女はトレントに『親友』への愛情以上のものを抱いていたような気もするし、『お友達』を守ろうとする、子供の必死さの為でもあるような気もするし。10歳という年齢がまた微妙なところなので、なんとも判断がつかないのですが。

 しかし彼女は、結局、トレントを守るために、娘に悪戯をしたと思い込む父親と、飼っていた犬をトレントに殺されたショーンから暴行される彼を助けようと銃を持つのです。
 (しかし、このあたり…。元々はデヴォンが自分で引き起こした事件ではあるのですが、大好きな犬の死を間近で見てしまったら、10歳の子供にはショックでしょうし(可愛がっていた犬の死を見たショックで、彼女はパニック状態になり、それを見た母親はトレントがデヴォンに悪戯をしたのではないかと思い込む)。ちょっと自己中心的な感じもするけれど、子供の行動としては、まぁ、分からなくもない。しかし、彼女の父親。金持ちのブレッドが娘に悪戯をしたことは信じなくても、どこの誰とも分からないトレントが娘に悪戯をしたというのなら、簡単に信じてしまう。彼女の父親にとっては、トレントなんて「何を企んでいるのか分からない」貧乏人でしかないんですよね)

 彼を助けるため、父親を銃で脅し、財布を奪い、トレントに渡すデヴォン。
「自分が撃ったことにされる」と躊躇うトレントに、「逃げて。新しいシャツを買って」と彼女は言います。そして、彼らを追い詰める全てのもの、「バビヤガ」から彼を逃がすために、物語りにならって、彼女はタオルと櫛も渡すのです。

 最後のシーンは、彼女の想像だったのか、それとも現実に起きた出来事だったのか。
 「バビヤガ」から逃げるトレントの後ろに、川がせりあがり、巨大な森が彼の後ろに生え。そうして、彼は「バビヤガ」から逃げ、二度と戻らない。
 けれど、彼の家は、彼女の手の中にあり、彼女はいつまでも彼を感じることができる。
リボンが結わえられた木の上にいる彼女は、ひどく幻想的で美しい。彼女の語る物語が終わると同時に、この映画も終幕を迎えるのです。



 まず、最後の展開は、かなり驚きました。なぜ、この映画がファンタジーと呼ばれるのか分かった気がします。しかし、よくできた脚本ですし、登場人物の一人一人がよく練り込まれていると思います。映画の中にもう一つのお話(御伽話)をからませるのもなかなか面白い。作中出てくる「バビヤガ」の物語は、いろんな国の昔話でよく見るお話ですよね。主人公が怪物に追いかけられ、その途中で何かを投げることにより、怪物を踏み止まらせる障害物が出るという。
 また、音楽もどこか懐かしいような、物悲しいような、けれど耳に残る旋律が多く、私はかなり気に入りました。映像も美しいものが多く(キャメロット・ガーデンの映像、森の中の二人、木に結わえ付けられたリボンが翻り、その中に座るデヴォン。特にこのラストは本当に印象的)、頭の中に残ります。そして、私的収穫は、サム・ロックウェル!このときの彼はものすごく好きですね。今見返すと、なんか照れちゃって見れないかも(汗)


 現代における御伽話。或いは奇跡。
 かなりマイナーな話ではありますが、ものすごくオススメの映画です。



蛇足ですが。
ミーシャ・バートンの現在に、ちょっとしたショックを受けました…。
なんなのよ、あの変な恋人は…(泣)
別にオーランド・ブルームとできてくれとは言いませんが、もうちょっとなんとかならなかったのか…(泣)。個人の趣味なんで、いいですけど(泣)。本人が幸せなら、いいですけど(泣)。
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by azuki-m | 2006-03-03 01:42 | ■映画感想文index

「ある子供」

f0033713_2103266.jpg監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演:ジェレミー・レニエ、デボラ・フランソワ、オリヴィエ・グルメ、ジェレミー・スガール、ファブリツィオ・ロンジョーネ

 「息子のまなざし」をアップしようかと思ったのですが、関西では現在公開中でもありますので、こちらを先にアップ。
 よく言われることですが、まるでドキュメンタリーのような映像。(ダルデンヌ兄弟は元々ドキュメンタリー映画出身ですしね)
 「人は変われるのか、そして大人になれるのか」
 ダルデンヌ兄弟が、ブリュノを通して観客にする問いかけです。 


乱暴に要約したストーリー:
ブリュノ(ジェレミー・レニエ)20歳、ソニア(デボラ・フランソワ)18歳。ある日、二人の間に子供ができる。母親として目覚めるソニアに対し、ブリュノの自覚は今ひとつ。それどころか、自分自身がまだまだ子供のままだった。ソニアはブリュノに真面目に働くように言い、失業手当を貰いにいく。しかしブリュノはその人数のあまりの多さに辟易し、ソニアを列に残し、赤ん坊を連れて散歩に出かける。しかしその途中、彼は以前聞いた子供の売買に関する話を思い出し、自分の子供を売ってしまうが。


 ブリュノの行動は、本当に子供です。
 ソニアとのシーンは、ほとんど子犬がじゃれているような感じですし、靴を泥で汚し、白い壁を蹴りつけてその跡を残したり、その場しのぎの嘘で警察をごまかそうとしたり、引ったくりなどで得た少ないお金を、非常にアンバランスな額で使ってしまう。けれど、彼は自分の下で働く子供たちの上前をはねることなく、約束のお金を支払うという、子供ゆえの素直さを持ってもいます。
そんなブリュノですから、ソニアが子供のジミーを連れてきたときは、自分の子供という実感がありません。むしろ、ブリュノ自身が子供であるため、ジミーは恋人ソニアの関心を奪ってしまう、厄介な存在に思えたのかもしれません。

 子供を売るとき、彼は初めて子供を抱き上げ、かすかに躊躇いを覚えますが、売ってしまった後は得た金額の大きさに有頂天で、他の事は見えていません。血相を変えて問い詰めるソニアに、「子供なんてまたできるさ」と言ってしまうブリュノ。ソニアはショックで倒れ、病院に運ばれますが、彼女が警察に全てを話してしまうことを恐れて、ブリュノは子供を取り返そうとします。私は子供を取り返した後、バスの中で子供を抱きしめて座る彼の横顔が、とても印象的でした。
 しかし、子供を取り返しても、ソニアの怒りが収まるはずはありません。退院したソニアを迎えにいっても、彼女はブリュノを拒絶し、アパートから彼を追い出します。

 このときは彼はただ驚くだけでしたが、時間が経つにつれ、その孤独はゆっくりと深くなっていきます。ソニアの元を訪れ、「別れないで」「愛してる」と彼女の足にすがり付くものの、彼女はやはりそんな彼を振り払い、拒絶を貫き通します。こうした過程を経て、ブリュノは「痛み」を知り、そして自分のしたことの重大さに気付いてゆくのです。
 それでも、彼は生きていかなければならず、そのために金を稼がなければならない。ブリュノは、仲間で年下の少年の一人を誘って引ったくりを行いますが、結果は少年だけが警察に捕まってすしまいます。「必ず戻る」。少年だけを残し、隠した金を取りに行く時、そう約束したからか。ともかく、彼はそのまま警察に赴き、自分が主犯であることを告げるのです。

『人は変われるのか、そして大人になれるのか』

 ブリュノの変化は、ゆっくりですが、確実に読み取れます。その変化をしっかりした脚本と演出で見せるダルデンヌ監督の技術は本当に見事。ドキュメンタリーのような自然なタッチでありながら、その演出には無駄がなく、観客の目を意識して作り込まれた映像です。役者たちも、「どこにでもいそうな普通の人々」で、演技をしているとは感じさせない、ものすごく自然体な表情を引き出されています。
 更に、画面上から音楽を一切排し、リアルさを追求しています。感情の高まりは役者の演技と、揺れ動くカメラから察するほかないのですが、それも極力抑えようとしています。しかし、最後の場面では、そんな張り詰めていた感情が、一気に開放されるのです。

 刑に服しているのであろう、ブリュノの元に訪れるソニア。
 沈黙の後、泣き出すブリュノ。ソニアの手を握り、額をあわせながら、二人はただ泣き続ける。

 息を詰めるように見ていたのですが、このシーンで私は大きく息をつきました。最後に提示された希望。ダルデンヌ兄弟は、登場人物を厳しい眼差しで見つめながらも、彼らを放り出すことはしていません。彼らが主人公を10代、20代という設定にしたのは、「まだ人生が決まっていない年齢だから」ということだそうですが、その為に、このラストがあるのでしょう。

 ダルデンヌ兄弟が、この映画によって、カンヌパルムドール2度目の受賞という快挙を成し遂げたのも頷けます。
 ぜひ見て下さい。



 蛇足ですが。
 最後のエンドロールをぼーっと見ていた時に、ジミー役にクレジットされていた子供の数を見て、目を剥きました。いち、にい、さん…。えぇ!?10人以上、いないか??(汗)
 赤ん坊役って、通常、どのくらいの人数で演じるものなんでしょうか。
 今まであんまり意識してなかったけど…(汗)

☆2005年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
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by azuki-m | 2006-02-23 02:13 | ■映画感想文index


「私は、断固たる楽天主義者なのです」
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